土竜のあたまんなか。

大阪のおっちゃんが切り取るエブリディ。

それでも、必要だった。

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ほほう。

これは、物事を上手く扱えるようになってきた頃、その物事に取り掛かり出した

人が「何」について理解できていないかが、わからなかくなっているのも同じ理屈なのかな。

何か知識を手にしようと思い立った時、繰り返しつづけることになると思うが

その長さ(&深さ)が経験という尺として後付けされるものだとすると、この経験というものはあえて、同列に考える必要はないような気がする。

もっといえば、もともと知識を得ようとする行為自体が共感を必要としてスタートしていない可能性が高いのでは・・。動機には共感に近いものがあるのかもしれないが。

共感は疑似体験という高度な技術といえそう。

びっくりするくらい、親身になって検討違いな薬をだす医者より、モニターや手元しかみていないけど時間を大切にし適切な薬を出してくれる方が資源をより有効に活用しているとも思える。

まぁ、もともとたいして、必要のない場面にもことごとく入り込んでいるものでもあると思う。共感は。